爽やかな文体・危うい人間関係・ムンクの絵のようにピリピリ震える感受性・精神的SMとセクシャルな官能性を次々に紡ぎだす松浦理英子の世界へ皆様をご招待します。






小説・エッセイ・対談・その他
小説作品

◆ 「葬儀の日」
   
   (1978年・文学界12月号)
   (1980年8月・「葬儀の日」文藝春秋社) 

   (1992年1月・「葬儀の日」河出書房新社文庫版


 「19歳の青臭い頭で「官能的かつ観念的な小説を書いてみたい」と志だけは大きく立てたのですが、いかんせん修行不足でした。何を書こうとしたのだったか、読み返す気にならないのではっきりとは思い出せませんが、たぶん「自己実現=成熟すること」を中心的主題にしていたのだと思います。
 いや、ドッペルゲンガー(分身)を扱った幻想譚を書きたかったのかな。それとも「多形倒錯小児における自己色情の喜び」だったでしょうか。それら全部を混ぜこぜにしたような気もする。」







◆ 
「奥野健男 文芸時評 」・(上・1976〜1983 下・1984〜1992)

   
(1993年11月・奥野健男・河出書房新社)


 「「葬儀の日」を読んで、自己形成期にしか書けない真摯で大胆な観念小説に久しぶりにぶつかった気持ちがした。ぼくらがこの作者と同じ二十歳の頃、書こうとしていたのはこのような小説だったと思い出す。いわば昔の旧制高校生的小説なのだが、それが男性ではなく女性によって書かれたというところに今日の若者のおかれている状況が反映しているのかもしれない。
 朝鮮はじめ日本にもあった葬儀のときの職業的泣き屋という土俗的な風習を現代に置き換え、笑い屋という職業も設定し、その上で分裂する自己を泣き屋と笑い屋という対極で表現しているのはなかなかの才覚である。

 どうにもならなく感じられる自己の矛盾した二面をシンメトリカルに対決させ、自己嫌悪とナルシシズムの中に男を導入して破綻に向かわせ、泣き屋の自分が笑い屋の自分を扼殺してしまう。
 自己形成期における自己の外面と内面という最大の問題を(しかし世間には理解されない問題を)、一歩誤れば青くさくて小説になど構成し難いテーマを、未熟さの露呈にはらはらさせながらここまで読ませたのは立派である。」



◆ 「火のリズム」

   
(1979年・文学界7月号


 大学生・章子を主人公に、大学生の兄やレコード店の女子店員への思い等と音楽が中心になった小説です。


◆ 「乾く夏」

   (1979年・文学界10月号)
   (1980年8月・「葬儀の日」文藝春秋社)

   (1992年1月・「葬儀の日」河
出書房新社文庫版


 「ちょっと妖しげで魅惑的な夏の夜を描きたいという動機で書いた記憶がある。ディテールがどこか攻撃的で、主要登場人物の一人が、自殺願望、心中願望があって手首を剃刀で切る趣味のあるエキセントリックな女子大生であり、この人物と性交がうまくいかないために自分は性器に欠陥があるのではないかと疑っている女子大生との、二人の女の交友が多く描かれている。」


◆ 「肥満体恐怖症」

   (1980年・文学界6月号)
   (1980年8月・「葬儀の日」文藝春秋社)
   (1992年1月・「葬儀の日」河出書房新社文庫版)


 「「男の子ばかりではなく、女の子にとっても母親は官能的な愛情の対象である」ということを、太ることをとても恐れている若い女の言動を通して描こうとした物です。
 これを書いた’79年当時、日本では拒食症という病気についても、それが成長過程での母親との不適切な関係を反映して発症することも、ほとんど知られていなくて、私も知らなかったのですが、一人で考えてこのような物を書いたということは、頭だけは冴えていたんでしょうね。」



◆ 「セバスチャン」

   (1981年・文学界2月号)
   (1981年8月・「セバスチャン」文藝春秋社)

   (1992年7月・「セバスチャン」河出書房新社文庫版)


 「主人公は男になりたいわけではないけれども女であることにさして執着はない、無性的でマゾヒスティックな感性で生きている二十歳そこそこの女です。サディスティックで刺激的な女友達に愛着しているのですが、一方で、マゾヒストで足の悪い年下の少年(これがパンク・ロッカーです)に出会い、親しくなります。
 観念と感情が先行して、だいぶ空回りしています。サド=マゾヒズムの描写にも本格的に取り組もうとしたのですけど、理念を提示するに留まったかもしれません。」


 文庫版には、「<畸型>からのまなざし」と題する富岡幸一郎さんとの26ページの対談が収録されています。


◆ 「いちばん長い午後」

   (1985年・文藝夏季号
   
(1987年2月・「ナチュラル・ウーマン」トレヴィル)
   (1994年・「ナチュラル・ウーマン」トレヴィル新装版)
   (1994年10月・「ナチュラル・ウーマン」河出書房新社

   
(1991年10月・「ナチュラル・ウーマン」河出書房新社文庫版


 三つの中・短編からなる連作長編「ナチュラル・ウーマン」の第一章であるが、小説内の時間としては、二番目のエピソードになる。

 奥野健男の文芸時評で、「今月いちばんおもしろかった小説。レズビアンの心理や生理がいきいきと描かれているだけではなく、そこに自己と他者との関係とアイデンティティーの問題が知的に透明に展開されていることに、若い知性的な女流作家の可能性をおぼえる。新しい倉橋由美子的な知的で感覚的な作家として成長してくれることを期待したい。」と評される。

  

◆ 「変態月」

   
1985年・すばる9月号)


 学校でのバレーボール部活動の交友関係等と可愛い幼なじみを殺してしまうというショッキングなお話であるが、自己形成期の中・高校生の真面目な悩みと性の目覚めの変化を扱っている。
他の初期の小説と文体も主題も全く異なり、松浦さんの文体の多様性を感じさせられる小説です。

 奥野健男の文芸時評で、「自己形成期の高校生の真面目な悩みと性のめざめ、変化を扱ったものだが、女性では可愛い幼なじみの女を殺してしまうという異常性を伴うものであるが、気取りが少ない気持ち良い小説。」と評される。



◆ 「微熱休暇」

   (1985年・文藝冬季号)
   (1987年2月・「ナチュラル・ウーマン」トレヴィル)
   (1994年・「ナチュラル・ウーマン」トレヴィル新装版)
   (1994年10月・「ナチュラル・ウーマン」河出書房新社)

   (1991年10月・「ナチュラル・ウーマン」河出書房新社文庫版)


 三つの中・短編からなる連作長編「ナチュラル・ウーマン」の第二章であるが、小説内の時間としては、三番目のエピソードになる。


◆ 「ナチュラル・ウーマン」

   (1987年2月・「ナチュラル・ウーマン」トレヴィル)
   (1994年・「ナチュラル・ウーマン」トレヴィル新装版)
   (1994年10月・「ナチュラル・ウーマン」河出書房新社)
   (1991年10月・「ナチュラル・ウーマン」河出書房新社文庫版)


 「これは傑作ですね。いや、「傑作」などという言葉を使うと逆にありきたりに響きかねませんから、間違いなく何ものかである小説、とでも言いましょうか。読み返してみても、「こんなクレイジーで力強い小説はそうそうない」と感動します。 別に完璧な作品ではない。レズビアンという題材がどうのこうの、といった次元の問題でも全然ない。何か目覚ましく新しい手法を開発しているわけでもない。
 でも、文学の伝統的な技術を尊重しながらも、パンク的と呼ぶほかないような姿勢で文学の原理に迫っているところがある−なんて、自分で言っていいんでしょうか。

 一口に言うなら、この作品は「恋愛性愛小説です」。
恋愛、性愛を主題とした小説は古今東西山ほどありますが、恋愛感情と恋愛感情に基づく性愛をともにきちんと描き出した小説は、私の知る限りない。 恋愛感情を描いた小説は性愛感情を控えがちだし、性愛を描いた小説は恋愛感情の描写をなおざりにしているか、恋愛そのものを馬鹿にしている気配がある。 そうしたことが私には非常に不満かつ不思議だったので、それならば自分で書こうと考えたわけです。

 男と女の恋愛ではなく女と女の恋愛を選んだのは、男と女であるとどうしても、両性に与えられた文化的な性別役割やら女性差別やらに由来する葛藤まで書き込まざるを得なくなり、恋愛と性愛の描写の純度が落ちるからです。
 もう一つ、後に、「親指Pの修業時代」でより原理的に展開される、「性器の統合を最大の目的としない性愛」の可能性を探るということ。きわめてまじめな意図です。」



   (1994年・映画化された)


◆ 「親指Pの修行時代」

   
(1991年5月〜1993年11月・文藝連載)
   (1993年11月・「親指Pの修行時代」河出書房新社)
   
(1995年9月・「親指Pの修行時代」河出書房新社文庫版)


 「 ある日突然21歳の女主人公の右足の親指がペニスそっくりになる、というところからこの小説は始まるのですが、そこで彼女が女ドン・ファンの如く華麗なる性遍歴を繰り広げるといった浮かれた話しになるわけではなく、あくまでも純情に人とつき合っていく中で、今まで何とはなしに受け入れて来た性行為がいかに曖昧で根拠のないイメージで支えられていたか知るようになるんです。
 私なりの性愛論に基づいて構想した小説で理詰めと言えば理詰めなんですけど、決して堅苦しくはなく楽しく読める書き方になっていると思います。

 前作同様この作品においても、私は心理・感情と深く結びついた性愛描写をやっているのですが、本作品においては特に、「誰が書いても似たようなものになる」とか「ありふれていて書く価値はない」と俗に言われているような、まっとうな愛情に基づく性愛をいかに豊かに描写するか、というところに力を注ぎました。
 それはそのまま、既成の文学作品あるいは通俗読み物に見られる恋愛描写、性愛描写に対する批判であり、私から見れば偏っているそれらの描写を成立させる社会的文化的背景に対する批判でもあるのです。」




◆ 「裏ヴァージョン」

   (1999年2月〜2000年7月・ちくま連載)
   2000年10月・筑摩書房)


 「これまで書いてきた作品のイメージを変える部分がいろいろ含まれているのは確かですね。タイトルには、”松浦理英子の裏ヴァージョン”という意味も込めていますしね」
 「コミュニケーションというと、相互理解に達するためのやりとりというニュアンスを感じてしまうので、この場合は、まあ濃い交わりと言いますか。ここに書いた交わりは、必ずしも理解に到達する目的で行われているものではないですからね。
 ”読み手”には、理解に到達したいという気持ちがあるかもしれないけど”書き手”の方には、それがない。ただ、理解に到達するかどうかはともかく、人と交わりたいという欲求は誰にでもあるものだと思う。今回は、そんな交わりの欲求について描きたかったんですよ」

 「理解したいというのは、掌握したい、支配したいという気持ちの表れである場合もあるわけで、決して美しい気持ちばかりとは限らない。人は自分が理解したいことしか理解しようとしないもの。そのエゴから逃れるのは難しいことだと思いますね」

 「罵り合ったり戦い合える友達、深く交われる友達なんていうのは、めったに巡り合えるものじゃないですよね。特に、若い世代の友人関係は、その人を選んで一緒にいるのではなく、もともと同質のものの集まりような印象を受けるんです。異質な部分での結びつきではないから”あの人と私が違うわけないジャン”と高を括っている可能性もあるんじゃないかと。

 本作は、そんな人たちに”こういう深い交わりの世界も面白いよ”という誘いかけをしてみたつもりです。こういう友情が他の種類の組み合わせよりもいいと言っているつもりはないですけど」
 「女友達との交わりの濃さ、ある意味での豊かさを描くことによって、一般的な異性愛の恋愛の、世の中で価値あるものとされている部分を相対化している側面はあるかもしれません。でも、濃い関係という点で言えば、ヘテロの恋愛であっても、2人のような交わりは可能だと思うんですよね」



小説収録

◆ 
「女性作家シリーズ21」

   
1999年7月・山田詠美・増田みず子・笙野頼子との共著・角川書店)


 「葬儀の日」・「ナチュラル・ウーマン」が収録されています。


◆ 
「SALE2・No.35〜40」

   
(1988年10月〜1990年10月・編集発行・大類信 発行・FICTION,inc. 発売・河出書房新社)

 No.35には、エッセイ「神経症的恋愛」が、No.36〜No.40には、
 短編読み切り連載小説・「天上の愛地上の愛」が収録されています。




エッセイ・対談・その他

エッセイ集

◆ 「ポケット・フェティッシュ」

   
(1994年5月・白水社)
   (2000年7月・白水社Uブックス)


 「’91年〜’94年にかけて書かれたエッセイ集で、折々に眼に触れた絵葉書とかTシャツの柄とか、読んだ本に載っていた挿し絵とか、好きな写真などに触発されて書いた文章を集めた物で、図版もいろいろ入っています。私有のパンダのぬいぐるみの写真も。この本の中の短い文章のいくつかは、なかなかにポップで気に入っています。」



◆ 「優しい去勢のために」

   
(1994年9月・筑摩書房

   (1997年12月・ちくま文庫版


 「’80年代に書いたエッセイの集大成です。芸も乏しく人間性も未熟だったのが、10年間でしだいに成熟して行く様子が、見て取れるのではないでしょうか。また、小説を書いていない間に私が考えていたこと等も、この本を読めばわかっていただけるでしょう。
 クラッシュ・ギャルズ・ブームのころの女子プロレスや、プリンスの初来日コンサートや、ポジティブ・パンク・ロック、あるいは中上健次さんの小説等が話題に上がっていて、’80年代は私にとっては面白くない時代だったような気がしていたけれども、これだけ好きな物があったのだから、そう空しい日々でもなかったのかな、とふと思わないでもありません。」

 ちくま文庫版の解説は、「覚醒と陶酔のミルフィーユ」・斉藤美奈子さんです。

現代語訳

◆ 「現代語訳 樋口一葉「たけくらべ」」

   
(1996年11月・河出書房新社



 没後100年を迎える薄命の天才作家・樋口一葉作品の現代語訳。
吉原のとなり町”大音寺町”、子どもたちは二つのグループにわかれて対立していた。やがて友情になるさだめにある少女・美登利がほのかに思いを寄せる寺の息子・信如。そのふたりもこの対立にまきこまれていく。
 −あわい恋のめざめ、少女が女になる哀しみ・・・少年少女たちが信じられないほどピュアだった時代の信じられないほどせつない物語を「親指Pの修業時代」の作者が優雅に現代語訳。(帯より)

人生相談

◆ 「おぼれる人生相談」

   
(1998年12月・角川書店
   (2001年4月・角川文庫版)


 若者・53人の様々な深刻な悩みの相談に、既成概念に囚われずに、非常に丁寧にかつ真摯に答えられています。
 親の世代にも今の若者の悩みを理解するのに役立つでしょう。

対談集・その他

◆ 「大原まり子・松浦理英子の部屋」

   
(1986年1月・旺文社)


 お二人の真面目なのですがハチャメチャぶっ飛び対談・お二人での女子プロレス観戦目的の倉敷旅行・女子プロレスのブル中野さんへのインタビュー・それぞれのエッセイ集です。
 二十歳代中頃のキュートなお二人の写真が見ものです。


◆  「おカルトお毒味定食」

   
(1994年8月・河出書房新社
   
(1997年4月・河出書房新社文庫版)

 笙野頼子さんとの対談・お互いへのインタビュー集です。プライベートな話題から純文学のお話までポップに楽しくお話が展開します。ファンなら一読したい書でしょう。

 文庫版の解説は、桐野夏生さんです。


◆ 「年鑑代表シナリオ集’94」

   
(1995年5月・シナリオ作家協会編・映人社


 デニーズで3日で書かれたという(松浦さん発言)、佐々木浩久監督と共同執筆した映画・ 「ナチュラル・ウーマン」の脚本が収録されています。
 ちなみに、「ナチュラル・ウーマン」の助監督は、青山真治さんです。


◆ 「トーキングヘッズ叢書第8巻・松浦理英子とPセンスな愛の美学−ゆらぐ性差の物語」

   
(1995年12月・アトリエサード 発売元・書苑新社)


 松浦理英子ロングインタビュー。
 世間一般に流布している「男らしさ」「女らしさ」に疑問を投げかけ、新たな「男」「女」もしくは「男女関係」を模索しようとする作品を取り上げています。
 松浦さんの青春時代の写真なども多く掲載されていて、見ているだけで、ファンにとっては楽しいでしょう。

(前書きを読む)



「葬儀の日」・「乾く夏」・「肥満体恐怖症」・「セバスチャン」・「ナチュラル・ウーマン」・「親指Pの修業時代」・「裏ヴァージョン」・「ポケット・フェティッシュ」・「優しい去勢のために」は、松浦さん御自身による解説の一部を使用させて頂きました。
                   





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